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2007年 07月 26日
日曜日以外でも課業が終れば、外出は自由であった。海の方へ行くと久慈という漁師町があり、大都市と違って軍人を見ることが少ないので、私達が町を歩いていると縁側でお茶を飲んでる「オバアサン」が「兵隊さん、兵隊さんお茶でも飲んでいかないかね」と誘ってくれて、おいしい漬物のお茶うけでお茶をよばれることも多かった。
日曜日は、気の合った3~4人のグループで水戸まで出かけ偕楽園や、近郊の西山荘等を訪れていた。ある日、二十三夜尊(水戸市内のお寺)の近くにあるスナック(当時は営業自粛していた)のママと親しくなり店内にはいり込んで時を過ごしていた。時々ママが酒を都合してくれて、飲むこともあった。また近くの置屋から芸者衆が2~3人遊びに来たりして面白い時を過ごすことが出来た。 我々のように、あっちこっち歩き回るグループとは反対に、東亜同文書院をでた中国語ペラペラのHは、大甕(おおみか)駅前の旅館の一室で、一人静かにお茶を楽しんでいた。一度彼によばれて、彼が淹れてくれた玉露を飲んだことがあるが、当時は私はそんな風流心もなく彼と一緒にお茶を飲んだのはこの時一度だけであった。現在お茶好きになった私は今になってHからお茶の淹れ方等を習っておけば良かったなあとホゾを噛んでる次第である。 第32話 終わり #
by konkon11424
| 2007-07-26 22:37
| 思い出
2007年 07月 20日
大津市の堅田(かたた)へ行ってきました。
JR堅田駅前北国海道に面して「志賀廼家淡海の碑」が建っていました 本福寺・・・真宗中興の祖蓮如上人が延暦寺の迫害をさけるため身を寄せた寺 浮御堂(臨済宗大徳寺派 海門山 満月寺)山門 浮御堂・・・千体の阿弥陀仏が安置されている 正面 裏側 光徳寺・・・蓮如が延暦寺の迫害から逃れるとき三井寺に預けた親鸞の真影を取り戻すために殉教した、堅田源兵衛の由緒を伝える寺 源兵衛の碑 源兵衛の像 光徳寺の一隅にある「こしきり地蔵尊」・・・腰から下の無い地蔵尊で腰痛等に御利益がある 祥瑞寺・・・一休禅師が青年時代修行をした寺 天然図画亭庭園(てんねんづえていていえん){居初(いそめ)家庭園}・・・湖水に面し湖東の連山を借景とした枯山水庭であるが、現在は対岸に高層ビルが立ち並び借景になっていない #
by konkon11424
| 2007-07-20 23:54
| 日々の記録
2007年 07月 18日
ほのぼの11歌う会の掲示のビラに使う写真を撮ろうとシティヒルを一周してみましたが「合歓の花」が残っていただけで、今の季節にふさわしいものは見つかりませんでした。ふと「E4戸建住宅地区」にさるすべりの木が在ったのを思い出し行ってみました。
E4戸建住宅地区のさるすべり E4マンション側に一本白いさるすべりがありました #
by konkon11424
| 2007-07-18 16:44
| 日々の記録
2007年 07月 11日
大甕(おおみか)での生活は誠に自由で、我々学生の代表としてO見習士官、副代表としてH見習士官が、学校当局との連絡に当たっていた。朝は一応、点呼と称して代表の指揮で体操とか宿舎の周りの清掃等を、行っていた。
ある日の朝、点呼で集合したとき、私の向かいの部屋のKとSの二人が共に眼のふちに青いあざを作っていた。これは二人が互いに殴りあいをした為であると言うことは明白であるのに、その理由を皆が尋ねたが二人とも絶対に言わなかった。ほとぼりがさめた頃に時々理由を聞いてみたが、やはり沈黙を守っていた。Kは和歌山の連隊、Sは大阪の連隊の出身であった。復員をしてから、Kは和歌山県の湯浅町、Sは広島県の湯来町にいることが、やっとわかり連絡がとれた。航空情報連隊は、小隊が各地に分散配置されていて、終戦で内地に引揚げるときは自分の属する連隊ではなく、近くの他の兵科の連隊に編入されて帰ってきた。そのためもとの連隊の同僚との連絡は全く取れなかった。お互いに自分の留守宅の住所を知らせていた者には復員後そこへ手紙をだしたが、私の場合返事がきたのは和歌山のK,広島のS,徳島のI、熊谷のNの4人だけであった。広島のSとはじめて再会した時に、大甕でのKとの殴り合いの原因を聞いてみた。はじめは渋っていたがやっと原因とそのときの様子を話してくれた。Sの話によると色々話をしている時にKが「大阪の連隊は弱い」と言ったことから口論となりだんだんエスカレートして、取っ組み合いの殴り合いになったと言う。たまたまKとSは二人だけで、仲裁に入る者もなく殴りあいが続いた。向かいの部屋にいた私とYとNも、KとSの殴り合いの気配は感じなかった。これは二人とも殴りあいの原因を聞かれるのが嫌なので他に分からないように、静かな殴り合いになったそうである。殴り合いをしているうちに疲れてきて自然にやめたということであった。 とことん殴りあったためか、以後二人は非常に親しくなったという。 第31話終わり #
by konkon11424
| 2007-07-11 02:05
| 思い出
2007年 06月 27日
昭和19年4月1日に陸軍航空通信学校へ出頭した。電波警戒機の施設は日立市の南にある久慈という小さな漁師町〈当時)の小高い裏山にあった。(ここはJR常磐線の大甕「おおみか」という駅のちかく)我々の宿舎はこの裏山の麓の、日立製作所の旧工員寮の建物があてられていた。当日は水戸の学校からトラックの荷台に乗せられ数時間かけて大甕の宿舎まで運ばれた。宿舎に着くと一部屋に2,3名づつ割り当てられ一応各自自分の部屋に落ち着いた。私は南京から一緒のY,豊橋から来たNの3人が同室になった。この日は身辺整理と施設の説明で終わり。翌日から教育が始まった。はじめは「要地用超短波警戒機」の概略の説明から始まった。要地用というのは主要都市の近辺の山頂に恒久的な送信所、受信所を設置して敵機の飛来を捕捉するもので、他に移動用という自動車に搭載して何処へでも移動できるものもあった。
概略の説明が終った後、軍事極秘と朱印がおされ通し番号のついた、要地用超短波警戒機関係書類が渡された。内容は送・受信機の取扱説明書、それぞれの回路図等であった。 警戒機の技術的なことは回を改めて説明したいと思う。 機械の技術的な面の教官はN技術中尉で、この人の説明は解りやすく、また質問に対してはすぐに明快な回答をしてくれるので、皆の信頼を得ていた。これに反して運営面の教官はS少尉という程度の悪い人間で、我々の階級が下なのをよいことにちょっとしたミスを見つけてはビンタをとっていた。 我々は昭和19年7月1日に少尉に任官したので7月以降はすこしは態度もましになったが先任であることを鼻にかけていた。8月に教育が終わった時、私と同室のY,Nと向かいの部屋のKとSの5人のうち、日大の剣道部の部員だったYは特に血の気が多く、Yの提案でS少尉に今までのお礼をしようではないかということで5人はS少尉の下宿におしかけた。 しかし敵もさるもの、下宿のオバサンに「Sさんは休暇を取って今朝早く実家へ帰られました」と言われ切歯扼腕しながら引き揚げざるを得なかった。同じ階級であれば先任、後任の違いはあってもこれは私闘(喧嘩)であるということで、問題になることはなかった。 4月から教育終了までの4ヶ月間は私にとって楽(らく)で楽(たの)しい期間であった 第30話終わり #
by konkon11424
| 2007-06-27 23:42
| 思い出
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